はじめまして!絵描き歴約20年の創作人物画家 Keigo N(中原啓吾)です!!
私は過去、激務とパワハラにより「うつ病」と「悪夢」を発症しましたが、その後は復活し働きながら暖かみのあるセピア色の人物画を中心に制作を続けています。
これまでの画家人生を自己紹介として綴ってみようと思います。
「働きつつも人物画を学びたい!」という方や、「セピア人物画にちょっと興味がある」という方に是非読んでもらいたいストーリーです。
まず私が「絵描きを目指そう!」と思うようにきっかけですが・・・それはモンスターのような「パワハラ上司」の存在があったからでした・・・。
目次
「パワハラ上司のおかげで絵に目覚めた」
20代中盤のころ会社員として「IT職」に就いていたことがありました。
この頃は「絶対絵の道に進もう!」という考えはあまりありませんでしたね。なんとなく会社員として生活していければいいかな・・ぐらいに考えていました。
仕事内容は発売前の携帯電話(ガラケー)のエラーをチェックするというものでした。非常に責任の重い仕事でしたし、ある意味「人生最大の転機」ともなった時期でした。
そして・・・この時期に「地獄」を見ることになったのです・・・。
要はとんでもなく厄介な「上司」に出会ってしまったということです。その上司は一言で言うと「パワハラのかたまり」といった存在でした。
身長は183cm、体重100kgと、見た目からも絶対に逆らえない負のオーラが放たれていました。まさに実写版「ジャイアン」といった風体でした。
さらに自慢話、私生活への介入、理不尽な作業配置、意味不明な暴言、公然での給与に関する発言 等々、漫画や映画にでてくる「嫌な上司」そのものでした。
当時は「パワハラ」という言葉自体そこまで聞かない時代で、上司の横行が簡単にまかり通ってしまうような風潮がありました。
月250時間以上の激務プラス「上司」が私の脳を洗脳し、まともな思考すらできないほど追い詰められていき、日々とてつもないストレスを感じるようになっていきました。
その結果、「軽度のうつ」と「日々の悪夢」を発症するようになってしまいました。
先の見えない深い、深い暗闇に堕ちていきました。
・・・・・・・・・。
「このまま仕事に押しつぶされるのが人生なのか・・・?」
「今の人生で満足と言えるのか・・・?」
「自分が本当にやりたいことは何なんだ?」
自分に正直に・・・物凄く正直になって心を「無」の状態にしてみました。
・・・。
すると自然と心に浮かんできたのが、「絵」のことでした。
追い込まれて、追い込まれてようやく、「本当の自分」に出会えた気がしました。人間はやっぱり追い詰められることも時には必要ですね笑
この時「一生絵を描き続けていこう」と心に決めました。絵と共に私の人生があります。
「絵に不向きだった幼少期」
1979年11月19日生まれ3人兄弟の末っ子です。末っ子なのにもう41歳です。生まれも育ちも八王子市ですね。
私は小さい頃から絵が好きでした。紙と鉛筆さえあればすぐに始められる「単純さ」に惹かれたからです。
今でこそ細密画っぽい人物画を描くこともありますが、小さい頃は・・・凄まじく不器用でめんどくさがり屋で何より絵が下手でした。
小学校の頃の授業参観に来た母が後ろに飾ってある40人の生徒の絵を見て、
「あ~この魚の絵はひと際下手だなあ・・」と思ったらしいのですが、
私の絵でした。
小さい頃は落ち着きもなく、何かを観察するということが面倒くさくて仕方がない性格でした笑 まさに絵に不向きな幼少期でした。
「絵を意識し始めた中高生時代」
中学生ぐらいから徐々に「美術全般」に興味を持ち始めました。
その頃、制作したのが上の版画作品(ナイキのシューズ)です。中学生当時の自分にとっては物凄く集中して細かいところまで再現した作品になります。
成績も5段階で「4」をもらい、親にもほめられました。他の教科はボコボコでしたが。
「集中する自分に酔う」高揚感みたいなものが芽生えた瞬間でもありました。この頃から細密画に興味が湧いてきました。
ただ画力はまだまだ乏しく、高校生ぐらいになってもこんな訳の分からない絵を描いて結構満足していましたね・・。
中高とバスケ部に所属して汗を流しながら、「絵」というものが自分の中で大きくなっていくのを感じていました。
「4年生で留年・・・美大生時代」
高校卒業後、一浪の末なんとか東京造形大学 美術学科に入学しました。当時は「美大ブランド」みたいなものに憧れてた節がありました。
ただ今となっては高い学費に釣り合わない浅はかな考えだったなあと・・猛省しています。
なぜなら私は美大に入るやいなや不思議と「絵に対する情熱」がなくなっていったからです。
それよりも「プログラマー」や「システムエンジニア」などのIT職への憧れが強くなっていきました。その当時ちょうど「IT系」や「ハッカー」を題材にした映画をよく見ていたのも強く影響したのだと思います。
結局・・そんな中途半端な気持ちが災いし・・・卒業間際で単位が足りない・・・という緊急事態に陥ってしまいました。緊急事態というか完全に自業自得です。
4年生で留年か・・退学か・・どちらになるか・・・1か月ほど絶望の淵にいましたが・・・
なんと奇跡的に・・・ある教授が救ってくれることになりました。物凄い量のレポートを提出することを条件に単位をくれることを約束してくれたのです。
自分自身に嫌気がさした数か月間でしたが、なんとか・・・無事に卒業することができました。
「生涯の画材に出会えた夜間専門時代」
パワハラ上司のいた会社を退職後、29歳から原宿の東京デザイン専門学校 夜間イラストコースに通い始めました。改めて絵を学び直したいと考えたからです。
新しい仲間と共に清々しい気持ちで絵に向き合えた1年間でした。
夜間部修了後、ウェットな絵の具系の画材を諦め、ドライ系の画材「鉛筆」と「色鉛筆」の2つに注力することを決めました。
画材を絞った方が画力向上と画風の確立においても確実に有利だと思ったからです。あと単純に「扱いやすい画材だから」というのもありますが笑
その後は「鉛筆」「色鉛筆」に絞り、モチーフも「人物」メインで作品を量産していきました。毎回同じ画材なので上達も早まり、少しづつ「自分の絵=画風」が定まっていくのを実感しました。
画力もメキメキと上がっていき、この頃は「絵を描くのが楽しくてしょうがない!」という時期でした。
「【セピアカラー】との出会い」
その後、絵を描ける喜びを感じながらもいくつかアルバイトもしてきました。7、8年前のバイト先で今の自分の原点ともなる貴重な発見がありました。
そのバイト先である方が異動になってしまうということで、最後に絵をプレゼントすることになりました。
描く前は「どんな感じの雰囲気だと喜んでくれるかな・・」とかなり悩みました笑
そんな時ふと頭に浮かんできたのが「セピア写真」でした。
セピア色の写真からは何とも言えない「風合い」「なつかしさ」が感じられますし、セピア写真を見た万人が必ず暖かい気持ちになるはずです。
「これだ!」と思い5日間程かけて「セピア色の肖像画」を制作しました。下の作品です。色鉛筆画ですね。
送別会当日、会の最後に絵を見せると、
その方は泣いて喜んでくれました。私もまさか泣いてくれるとは思いませんでした。
その方いわく「モノクロ鉛筆画や普通のフルカラーよりもめちゃめちゃ暖かさを感じる!それに珍しさもあって感動した!」とべた褒めしてくれたのを今でも覚えています。
絵描きとして間違いなく「至福の瞬間」でした。それ以降、セピアカラーの人物画を要所要所で描くようになり、現在のスタイルが確立されました。
「ほぼ3色のみで表現できるセピア人物画」
最近はモノクロ鉛筆画で写真のような人物画を描く人が増えてきましたね。凄い技術をお持ちだなあと本当に感心しています。
ただ・・その反面ちょっとありふれてきたのかなあ・・という印象も否めません。それに鉛筆画人口自体もだいぶ減ってきている気がします。やはり色を使いたいというのが絵描きさんの心情ですよね。
また普通のカラー作品を描くとなると・・これは相当な努力が必要になります。 複雑に色を重ねていかなければなりませんので膨大な練習期間も必要になります。
その点セピアカラーの場合、温かみもあって基本的には「茶系3色と意外な色」を塗り重ねているだけなので、丁寧に描いていけば決して難しくはありませんね。
初級者さんでも2作品ぐらい真剣に描けば十分にコツはつかめます。
「大切な人の為に描く絵」
「セピア人物画」をプレゼントした時以来、「絵」というものについても深く考えるようになりました。
私は今までの画家人生で「自分が描きたいと思う絵」をただひたすらに描いてきました。時には「1人よがりの絵」と言われるようなドロッとした絵も描いたことがありましたね笑
しかし、それなりに画家人生を積んできた今、
「【絵】はやっぱり人に喜んでもらう為に存在しているんだな」と強く感じるようになったんですよね。
家族や友人、大切な人に「嬉しい!」「凄い!」などの「喜びの感情」を与えること、それこそが本来の絵の存在意義なのだと思うのです。
そもそも人を不快にさせる為なら何かを制作する意義がないわけなので。
私も年齢を重ねてきて色々な気持ちの変化がありつつ絵を描いてきました。これからは「人に喜んでもらう人物画」を意識して制作に邁進していこうと考えています。
「セピア人物画講座」
現在、無料のセピア人物画講座を作成中です。もうしばらくお待ちください。
Keigo N(中原啓吾)/ 略歴